周囲の人に協力してもらいたかったら、話をして手伝ってもらいます。
もし自分が依頼を受けるときに、
その必要性を理路整然に説明を受けて、話を聞いたときには「その通りだな」と思います。
心の底から「その通り」と思っているのとは違います。
職場で上司がわたしの協力を得ようとして説明してくれたことがありました。
理路整然と話をして、わたしが疑問点をいくつか質問しても、よどみなく説明してくれました。
ふだんのわたしは「上司の言うことだから、引き受けようか」と考えます。
確かに、以前のときには同じような依頼を引き受けました。
多少無理して協力していましたが、今回はさらに厳しい要件を伝えられたため、わたしの家庭に支障がでるので断りました。
それでもわたしの家庭のことを「それなら、こうしたらいいよ」「こんな方法もある」と説得しようとする上司の姿勢。
表面的には、そして言葉上は理路整然としていますが、わたしの「協力する・しない」の背景を考えないで、言葉で説得しようとしている姿をみると・・・。
- わたしの家庭のことを知らないのに
- 言葉で言うのは簡単
- わたしの家庭のことに取り組むのはわたし自身
と自分の心の中の声。
対話するというわたしの心の窓口のシャッターがガラガラと下りていきました。きっぱりとお断りしました。
- プライベートのことをもしあれこれ説明して対話しても、わたしが到底納得できることは無いだろうと思ったから。
- 前回は多少無理をして、上司の依頼を引き受けても、これではキリがない。
- そして上司は「わたしの気持ちとはかなりかけ離れたところ」で、協力を求める依頼にYESの返事をもらうことに主眼があるから。
結局は
- 理論上や学問的に、理路整然に説得するということは正義かもしれません。
- でもそれを生活などのプライベートに「納得」して取り入れることができるかについては、理論や説得では不十分。
「納得」と「説得」の間には、大きな違いがあるからです。
例えば、運動やカロリー制限、減塩が健康にいいと病院で説明を受けたとき。
- 確かにそれは体にいいということは分かる。
- でもね(言葉でいうのは簡単だけど)・・・
ということです。
有名な山本五十六氏の言葉に、
やってみせ
言って聞かせて
させて(やらせて)みせ
ほめてやらねば
人は動かじ
という名言があります。
命令するというのは普通にできるのでしょうが、大事なところで納得してもらって人を動かすというのは簡単にはできないというのは昔からの真理です。
協力を得ようと思えば理路整然と説明して「説得」する以上に、簡単ではありませんが人としての感情を知ろうとする、そして大事にするのが「納得」を得る第一歩です。